奥の細道 芭蕉隠密説

昨晩、息子が試験勉強で松尾芭蕉の奥の細道を音読していました。

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也・・・」の有名な出だしではじまるやつです。

 

奥の細道では郷里石巻を旅した時には道にも迷い、誰も泊めてくれなかったと愚痴を書いています。

しかし、逆の立場のわれらご先祖から見れば・・・

 

松尾芭蕉は忍者を輩出した伊賀上野の郷士出身です。18歳時に藤堂良忠に仕えましたが、この家はかの服部半蔵の縁戚でした。良忠が俳諧を学んでいたため主君が5年後に亡くなった後は俳諧の道を歩んだとされます。

 

芭蕉は弟子の可合曾良とともに元禄2年3月江戸を立ち奥州を旅し、北陸を抜けて9月に美濃の大垣に着いています。行程なんと2400劼任后△靴も半年足らずで。

 

当時、人々の往来は通行手形によって厳しく制限されていました。芭蕉がこのような自由で広範囲の旅行が許されたのは幕府の公儀隠密としての情報取集の役割が課せられていたからではないかという歴史研究が近年では有力です。

 

泊まった場所も役人や代官の家が多く、貧乏人の家を流れ歩いた同じ俳人の小林一茶などよりはるかに恵まれています。

 

150日分の二人の旅費は水戸藩が援助したといわれています。当時水戸光圀が大日本史を編纂していましたが、その調査員としてに加え、幕府から伊達藩の動向を詳細に探る目的を与えられたというのです。このころの伊達藩は日光東照宮の大規模な工事を命ぜられており、不穏な動きがないか調査させたようです。ただし公儀隠密の主が芭蕉であったのか曾良であったのかは議論のあるところのようです。

 

伊達藩は外様大名ですが、家康の娘と縁組したりして一応服従はしていたようです。我がご先祖の主人の家老の片倉小十郎は真田幸村の娘を大坂夏の陣の後養女に向かえたりしてしたたかな外交もしています。幕府に隙を見せたら処罰の対象になるため、公儀隠密には神経をとがらせていたはずです。

 

芭蕉の行程は伊達藩に入ると途端に積極的に行き来します。そもそも「松島の月まづ心にかかりて・・」と旅の大きな目的のように初めに言っているのに松島には1泊しかせず本職である句も読んでいない。

 

仙台藩での目的は軍事商業基地である石巻と軍事拠点である瑞巌寺の視察のようで、この辺のところは同行者の曾良日記に詳しい。

大きな視察目標の石巻に平泉から降りてくる途中迷って辿り着いたなどと大嘘を書いています。

 

伊達藩側も半ば芭蕉が胡散臭い存在であることを察していて、お上(この場合伊達藩)の許可なく泊めたり接待したりすることのないよう指示が出ていたのではないかと思われます。

 

人情に薄いために芭蕉に冷たくしたわけではない・・・と反対の立場から言わせてもらいました。


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